晴明神社について

晴明神社

晴明神社(せいめいじんじゃ)

(1)神紋

晴明さんのご神紋どこかでご覧になった事はございませんか。旧日本陸軍の軍帽の紋章です。外国でも使われています。昭和の始め頃までは子供の着物の紐の根着につけられ、又幔幕の縄を通すちちにもつけられました。厄除開運の紋として、幸運を願ってつけられました。「晴明桔梗」と言います。晴明公の秘められた独特の陰陽道に用いられる前祷免符の1つです。天地五行と形どり宇宙万物の厄災清浄をあらわしています。ギリシャ語でペンタグラマンと称して外国でも魔除けの印としています。

(2)晴明様と我が町(西木田2丁目)←(氷川町)←(東町)との関係

960年(天徳4年) 晴明公(40才)の頃、北陸道を巡遊されました。
木田荘 天王社前で日がとっぷり暮れました。木田四ッ辻にたたずみ、適当な宿舎を探すがみつからず大変お困りになりました。民家に一宿を乞われました。
古老の言い伝えによれば、現在の北陸銀行木田支店の南西角に当たると聞き及んでいます。老婆は心良くおもてなしをしてお泊りいただきました。翌朝御出立に際し、わしは清明と云う者だ 宿泊のお礼に火伏の呪法を厳修されて行かれました。私共は1000年来その神のごかごをこうむっています。近くに明治33年橋南大火、羽入火事、昭和20年の空襲(長慶寺釣鐘楼前直径30cm位の焼夷弾、重ねて1個、町内西端にのこし焼夷弾1個町内周囲は火の海)にあるにも難をまぬがれています。晴明公の御加護のご偉大さに町内一同感激している次第でございます。
大正末期京都上京区堀川町ご本社から御分霊をお迎えして木田の清明神社とし昭和30年9月26日当所にご神殿を造営して祠り日夜尊崇ご信拝申し上げている次第でございます。
早朝ご参拝も多くご神威の高きことが伺われます。

(3)安部の晴明公とはどんな方でしょう

921年(延善21年)生れ 960年天徳4年 40才北陸ご巡遊 1005年(寛治2年)9月26日85才で亡くなられた。
平安時代の陰陽天文博士 延善21年香川県讃岐国春之東郡井原の庄人として生れられた。
孝元天皇の皇太子大彦命の御後胤で父は大膳太夫 ご幼少の頃より御賢明な方にて万の道に秀でられ始め陰陽師加茂忠行その子保憲について天文の擱くが奥義を窮められ、特に天文暦学に通達せされ、神道自在の妙技を得られました。長するに及び天文陰陽博士として神の如き両得の人でありました。朱雀帝より村上、冷泉、円融、花山、一条、六代の帝の側近に仕えられ数々の功績を立てられた。中でも村上帝の御代進んで入唐し、城刑山に白道仙人の神仏を承り帰朝するやいなや 我が独特の陰陽道を確立させ朝廷の祭政・民族生活の規範を定められた今日我々が基準とする年中行事「暦術占法」等皆この時創案されたものであります。移りゆく曇雨を見て空中の変事を予知し、建国の吉凶を判断された、その功績により従四位下に叙せられた。寛和元年六月花山天皇 位をひかれら夜 潜りに宮を出てこの夜の暑さを庭にさけ仰いで天象異変のあるを見、驚き朝廷に赴くに王座空しかりと云う。長徳中術士あり 左大臣藤原道長に告げて曰く「某日家当にあり」朝に及んで道長門を閉ず。鎮守将軍源頼光、医師丹波忠明 僧正観修及び晴明を抜く たまたま大和瓜を献ず道長疑いて食わず、晴明云わく「瓜中に毒あり」と云う その瓜 踏々円転して止まず 忠明針を持って刺す瓜動かず頼光 刀を抜いて割る 中に小蛇あり針その目を刺し刀頭を断つと云う又、天徳中節 刀災にかかる人の制を知るものなし 詔して晴明の本像を作って献じた。晴明の居所 土御門の北西洞院の東 御所の北西にあたり(鬼門)御所を今もお守り申し上げています。
本社 京都上京区堀川一条上る晴明町
愛宕郡に墓あり 福井県遠敷郡中名田 社荘(泰山君府の墓)中国の神様
名田庄村 奥名田終 晴明公と関係あり
当社略暦
1.大正末期 御分霊を迎う
2.昭和30年9月26日夜御分霊遷座式(25日)
大祭    ○御神殿造営
○鳥居建設
○木下信氏 神殿幔幕奉納
○酒井幸太郎先生提灯一対奉納
昭和42年 ○内田太郎吉氏神殿屋根銅板葺き替え
昭和58年 ○木下敬三氏幔幕寄進
町内はもちろんのこと他町の方々のご信仰篤く威大な御神威に感激しています
晴明公のご加護あらんことを深い信心の誠をつくしたいと思います。
昭和58年5月24日 山田記す
追記昭和45年9月  島田勝海氏   由緒板奉納
昭和58年5月  〃       由緒板を改修

この文章は昭和58年5月に山田氏が書かれたものを写しました。